『アトリエひこ』 ヒコさんと母・昌子さん(前編)

大江正彦さん(以降ヒコさん)の画集『ZOO GRAPHIC』は、
2004年5月31日に発行されました。
この画集の巻末に、
ヒコさんのお母さま・昌子さんの『アトリエひこ』ができるまでの記述があります。
これを読むと、母が子どもに注がれた深い愛と、苦労や喜びが手に取るようにわかります。
この画集をお持ちでない方にもお伝えしたいと思い、
せっせと書き写しますので、ご興味のある方はお読みくださいね。

<この画集を手にしてくださった方々へ>
“アトリエひこ”それは、私が長年求め続けていた場所です。
正彦が楽しく絵を描ける場所。
仲間がいて、指導者がいて、いつも和気あいあいとしたアトリエ。
それが今現実のものとなり、しかもここから生まれる絵や書がアートとして評価していただけるようになり、
こんなに嬉しいことはありません。
ダウン症による重度の知的障害と重い心臓病をもって生まれた正彦。
息子がこんなに幸せな日々を過ごすことができるなんて、幼いころには想像もできませんでした。
小さいころから絵を描くことが好きでしたが、ただ好きで描いてきたというだけではありません。
本人の生命力は天に感謝するばかりですが、
良き指導者との出会いと、正彦にかかわってくださった大勢の人々の思いやりと愛情に支えられて、
絵を描き続けることができたのです。
そのことをみなさまに知っていただきたくて筆をとりました。
<正彦の誕生>
私たちの長男、正彦は昭和40年6月13日の夜生まれました。
微弱陣痛で難産でした。
鉗子分娩で生まれた子は、左頬と頭の後ろにくっきりと鉗子のあとが傷になっていて、痛々しいものでした。
生後まもなく、お医者様から、ダウン症の疑いがあり、長く生きられないかもしれないと言われ、ショックでした。
しかも生まれつき心臓が悪かったのです。

<学校へ行きたい>
正彦が学齢期になった当時はまだ就学猶予・就学免除という制度がありまして、
あなたのお子さんは学校へ行かなくてもよろしいとか、
学校へ行くことを猶予してくださいと言われるわけです。
正彦の校区の学校には養護学級がなく、校区に関係なく受験できる大阪教育大学附属養護学校を受けてみましたが、
心臓病が理由で不合格でした。
よその子と同じように学校へ行かせたい、友達が欲しいと痛切に思いました。
ちょうどそのころ「障害児を守る会」で、同じ思いのお母さんたちが集まり、
就学猶予・免除をなくそうという運動を始めました。
あるとき、大阪府との交渉があり、約300人のお母さんたちが集まって、
養護学校を作ってください、養護学級を作ってください、と意見を言う機会がありました。
私も必死の思いでマイクを握りました。
「私たちの校区には養護学級がありません。
 大阪教育大学附属養護学校の入学試験を受けましたが、心臓が悪いからと断られました。
 ひとりしょんぼりしているわが子を見ると、かわいそうでなりません。
 なんとか学校に行かせてやりたいです」と訴えました。
その集まりには、附属養護学校の先生も来られていたそうです。
それから1年間、キンダーハイムという知的障害児の幼稚園に通い、
翌年再び大阪教育大学附属養護学校の入学試験を受けました。
一次試験は全員合格、その後抽選でした。
そうなるには、大阪府との交渉に来られていた先生のご尽力があったそうです。
学校内で、心臓の悪い子も発作のある子も、
学校へ来たいという子供はみな受け入れようという運動をして、反対しておられる先生方を説得されたそうです。
そのときの抽選のことは今でも忘れることができません。
箱の中に合否を記した封筒が入っていて、それをひく順番を決めて、
それからひとりひとり封筒を取り、隣の部屋で封を切るのですが、
私は身体が震えて封筒をあけることができませんでした。
教頭先生が勧めてくださった椅子に座って封筒をあけようとしましたが、あけられません。
先生が、あけましょうかと言ってくださったので、封筒を震える手で渡しました。
合格という字を見て、ほんとうに嬉しかった。
16人のうち6人が合格しました。
10人落ちましたが、その年から校区の学校でも障害児を受け入れてくれるようになりました。
けれど学校側の体制ができていなかったので、
養護学級のない学校では一日中、教頭先生が障害児の面倒を見てくださっていて、
「お客さん扱いやわ」と言う人もいました。
附属養護学校に入れた正彦は幸せでした。
学校はほんとうに楽しいところでした。
<心臓の手術>
正彦の心臓病は右心室と左心室との間の壁に穴があいている心室中隔欠損と聞いていましたが、
8歳のとき、小児保護センターの主治医が変わると、
ファロー四微症と診断され、早いうちに手術をしたほうがよいと言われました。
そこで国立大阪病院に相談に行きましたら、成功率は80%だと言われました。
80%と言われましても、あとの20%は死んでしまうということです。
母親にとっては、50%と言われたも同じです。
せっかく小学校に入れたのに、死んでしまってはあまりにもかわいそうです。
手術を受けるのはできるだけ先にのばしたいと思いました。
そのころ、どこへ行くにも歩けない正彦をおんぶしていました。
体重は16キロしかありませんでした。
どれだけ痩せているかというと、裸のうしろ姿を見ると、お尻の穴がまともに見えるくらいです。
家の中ではお尻を擦っていざっていましたから、尾てい骨のまわりがたこになっていました。
一年生の春の親子遠足では、観光バスでならの奥山へ行き、
奥山から奈良公園までハイキングをしたのですが、いくら軽いといってもしんどかったです。
へたばりそうになっていると、身体の大きな先生が代わって正彦をおぶってくださり、
やっとついて行くことができました。
翌年の1月10日、今宮えびすへも正彦をおぶってでかけました。
途中、正彦の重みで足がうまく動きません。
足がもつれて転びそうになりました。
そのときに思いました。
私がおんぶしてやれるのも限界だと。
このときです、心臓の手術を受けようと決心し、国立大阪病院へ手術の申し込みに行きました。
そして、正彦が二年生になった4月の末に入院。
5月の連休には外泊許可をもらい、家族4人で和歌山の太地へ旅行をしました。
これで最期になるかもしれない正彦を思いっきり楽しませてやりたいと思ったのです。
鯨のショーを見たり、海岸を歩いたりしました。
お医者様も慎重でした。
1ヶ月体調を整えて、病院生活にも慣れてからの手術でした。
手術には大量の輸血が必要です、最低9人分の新鮮血を集めてくださいと言われました。
手術の1週間前に正彦と同じ血液型の人に集まってもらって、
ひとり180ccの血液を確保してから手術が始まりました。
15人もの善意の方々から新鮮血をいただいて、正彦は無事に手術を受けることができました。
5月27日でした。
たいへんな手術でした。
手術から1ヶ月後、正彦は無事退院することができました。
入院から2ヶ月間、私は正彦につきそい家を留守にしていたのですが、
その間、主人がよく頑張ってくれました。
質屋の商売をしながら、次男の隆夫はちょうど幼稚園でしたので、
お弁当を作り、送り迎えをし、そのうえ毎日のように病院へ見舞いに来てくれて、
私にもお弁当を持ってきてくれました。

後編は後日に・・・。
 

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