池田忠利の想像的世界

こんにちは。

池田忠利さんの作品は、
写真ではなく実物を見て鑑賞していただきたいのですが・・・。

それでもご覧にいらっしゃれない方に、
何かしら言葉でお伝えしようと思っています。
が、私の稚拙な表現力ではなかなか伝えきれません。

今日は、美術評論家のヨシダ・ヨシエ氏が池田さんについて述べられた文章を
そっくりそのまま書き写すことにしました。
ちょっと長い文章ですが、池田さんのことがよく書かれていると思います。

“無機と有機の精霊をリゾーム(根茎)的にむすびつけ  池田忠利の想像的世界”

漂流物ということばに出逢うと、なんとなくわたしは、瀧口修造のなつかしい落合の書斎を想いおこしてしまう。
「夢の漂流物」といういい方もしておられたし、「影どもの住む部屋」とも記されたかとおもう。
夢といい影といい、ものたちに精神的な陰影を宿した空間のドアが静かにひらくような形容だ。
「それらはオブジェでもあり、言葉でもある。永遠に綴じられず、丁づけされない本。壁よ、ひらけ!」と。
ながい時の間の海を旅して、ながれついた夢や影は、本棚の一隅や壁や机や床にあった。
アーチストの創ったものもあったし、貝や石や朽ちた葉や、新宿の地下道で求めたという与論島のスターサンド(星砂)のようなものもあった。
夜ひとりでルーペで砂をみて、そこに骨片のような星型を発見し、その「無言の衝撃」のなかで、詩人はディアロゲール(対話者)になるのだ。
窓から音もなく訪れてきた花びらか蝶のように、それは書斎の壁をひらき、瀧口修造の欲望の記号とどこかでかさなりながら息づくのであろう。

房総の海辺、それは熱帯からルソン・パシー海峡を経て東シナ海に接し、日本列島の南側を横断してきた黒潮の接近するあたりに住む池田忠利は、波打ちぎわや岩場に流れ着いた流木に出逢う。
かれはそれを丘の上のアトリエに運び込んで、ディアログを始めることになろう。

「ひとしく漂着というなかにも、いろいろの運命のあったことが考えられる」と、かつて柳田國男は記した。
柳田自身、大学生の夏休みに伊良湖崎の突端に遊んで、砂浜でさまざまな寄物を目撃する。
船具や船の破片に文字の痕のあるのをみて、遠い海上の悲しみをおもい、貝を拾いあげて、古代の海の風情を考える多情多恨の人は、後年、といっても半世紀以上経て、「海上の話」というレクチュアを試み、それからまた10年後の最晩年、87歳で、かの名著『海上の道』を上梓したのである。
風のさまざまな呼称の蒐集、アジア諸国でのタカラ貝珍重の理由、そして柳田の話にヒントを得て、島崎藤村が『椰子の実の歌』(名も知れぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ・・・)を作詞することになる椰子の実の漂流から、稲作のルーツ、そして現日本人の形成への想念と、柳田國男の想像力は展開したのだった。
余談、否、いっそう凄い展開がこれにつづく。
それからまた20年も経って、1987年他界した解剖学者・三木成夫は、デパートの果物売場で偶然入手した椰子の実の液汁を吸い、その奇妙に望郷的な味覚から、「おれの先祖はポリネシアか」と瞬間的に着想する。
そして解剖学的にみて、日本人の脳の型が中国や韓国よりも、ハワイ、サモア、トンガ、ニュージーランドといった、広義のオセアニアと同型であることを知るのである。
その上、「哺乳動物の雄が、授乳期の雌のからだに近寄り、しかもその哺乳のあいだに割って入るなどという光景」は、断じて拒絶したいという男の美学を経ちきって、男の子を生んだばかりの三木夫人のオッパイに吸いつくという実験精神まで発揮してしまうのである。
そして意識の次元をはるかに超えた、記憶という遺伝子的世界に想像力を展開させ、これも名論文『胎児の世界・・・人類の生命記憶』を書きおろすのである。
そして、わたしたちは、からだを構成する60兆といわれるほどの細胞の原形質もすべて、生命発生の30億年になんなんとする記憶という深海に寝をおろし、その「日記帖」を大切にかかえたまま漂流し、人類というものに辿りつくという仮説を展開したのである。

話がひろがりすぎた憂いもあるが、たとえばアーチストがさまざまなマテリアルに出逢ったとき、瞬時にそれを選択するかくされた道筋には、かくもふしぎな深淵からの遠い声がよみがえるのだということを言いたかったのだ。
柳田も指摘するように、「多数の漂着物は、永い年代にわたって、誰ひとりかえりみるものもなく、むなしく磯山の翳に朽ち去る」のである。

流木も船具も貝も、浜辺の寄物は、そう呼ばれている段階では、客観的なものにすぎないが、それをアーチストの目差しがとらえたとき、ひそやかなことのはじまりが起こるのだ。
わたしが、アニミズムを考えるてがかりのひとつとして、よく引用する例だが、京仏師が「わたしは木を使って仏を彫るのではない。木のなかに仏がおわしまし、わたしはそれに出逢うのだ」と言ったことばを憶いおこす。
三木成夫流にいうならば、遠い遺伝子的記憶が、もののなかから、ものがたりを描きだしてくるのである。
池田忠利は、こうした直感的に見通したものがたりのてがかりを、大切に画室で凝視め、「壁よ ひらけ!」とささやいて、秘密の日記帖のページを繰るのである。
それは流れついた流浪の娘をレイプするには、あまりにもやさしく、慎重な手つきであり、レイズ(育てる)には、あまりにルード(好色的)な目差しなのであろう。
そしてそれは、対象を生命化させる床上手のしぐさなのである。

流木のオブスキュリテ(闇)の日記帖を読解して、生命の宿るオブジェにする池田忠利のもうひとつの「球根栽培法」に、コラージュの連作がある。
池田は、グラフィック・デザインの仕事にたずさわり、図面や写真の捨てられた断片をコラージュにして、ここにもふしぎな生命を誕生させている。
それらの表情をかたちづくる断片は、これもまた「情報化け社会」の黒潮からはずれて、漂い、シュレッダーダストとして屑箱へ放りこまれる寸前の、見捨てら
れた漂流物であったのだ。
その組成されたいきものであるコラージュのイメージは、だから印刷媒体の移り香を漂わせて、メカニックな影があり、無機物がみる有機物化への夢といった気配がある。
そして情報潮流(トレンド)のなかの漂流物と、海流(タイド)のなかの漂流物が、これも画室のなかを漂いつづける池田忠利の目差しに捕捉されて、栽培され、精霊(アニマ)を宿し、リゾーム(根茎)で交尾しつづけながら、夢を紡ぎはじめたのだというべきか。
あるいは、放浪無残、うしろ姿のしぐれた(山頭火)風情のカオスの切れぎれが、生命のコスモスと、オスモーズ(浸透)しあって、かおすもすの小世界を創造したとでもいうべきか。
いずれにせよ、ときには含羞にもみちた、ゆたかな表情を、無機から有機にわたる橋の上でみせて道化しているのだ。
さもあらばあれ、機械のアニミズムと、自然のアニミズムの合祀されたハウス・丹波乱(精霊堂)へ、君は参詣にこられるがよし。
このハウス・タンバランのことを、(最後に君にそっとあかせば)遺伝子的記憶をわずかにでも共通する可能性のある池田忠利の実兄・池田龍雄と呼ばれるコズモロジスト(宇宙論者)は、ガリバーが探訪したラピュタ島の、空中に浮遊するワンダーランドではないかと判断したのである。

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