『アトリエひこ』 ヒコさんと母・昌子さん(後編)

こんにちは。
日に日に春らしくなってきますね。
今日も快晴、気温も高めです。
“静と動”展、
三笘修(陶)・大江正彦(絵)2人展は、今日を含めてあと3日で終了します。
どうぞご高覧くださいね。
今会期の1週めに大江正彦さんのお母さまの昌子さんの想いについて、
画集の巻末にある記述を前編だけお伝えして、後編がまだなのに気がつきました。
今日は、ひたすらに、書き写します。(汗)
よろしければ、どうぞお読みください。

<正彦と絵>
心臓の悪い正彦は小さいころから絵を描いて遊んでいました。
線を引いたり、テレビの主人公を描いて遊んでいましたので、
絵を描くことは生活の一部になっていました。
小学校の遠足で動物園に行ったときには動物のスケッチをさせてもらっていました。
何本も足のある赤い象や足の短いキリンなど、愉快な絵を描いていました。
あるとき、一人の女の先生が正彦の絵が好きだと言ってくださり、とてもうれしかったのを覚えています。
もっと上手になって、お部屋に飾っていただけるような絵が描けるようになったらいいな、と思いました。
小学部六年生から4年間、近くの大念仏寺アトリエに通いました。
造形作家の今井祝雄氏とノンフィクション作家の美沙子夫人が主宰されていた美術教室は、
幼稚園児、小学生、中学生が対象で、知的障害がある子供はふたりだけでした。
はじめのうち一色しか使わなかった正彦は、まわりの子供がやっているのを見て、
クレヨンや絵具でいくつもの色を使えるようになりました。
画用紙全面に色を塗って、一枚の絵に仕上げることも覚えました。
中学部一年生のときには児童画の公募展に出品していただき、佳作に選ばれたことがありました。
絵を描くことについては普通児に負けていない、と親の心が躍りました。
この美術教室は正彦が絵画の道に進む第一歩でした。

<もっともっと絵を描かせてやりたい>
高等部を卒業したら好きな絵をじっくり描かせてやりたいと思っていましたが、
大阪には知的障害者が通える絵画教室はありませんでした。
専門的な画材の扱い方などは私にはわかりませんので、
教えてくださる方を探しました。
肢体不自由児協会の絵を描く会には大阪芸術大学から先生がおみえになるので、
ひとりひとりにお願いしてみましたが、みなさん忙しいと断られました。
いつも正彦の絵をほめてくださる長老の先生がおられましたが、
その先生は
「私は今までに多くの人たちに絵を教えてきましたが、
 この人たちにはどう教えてよいかわかりません。
 ただ毎年この会に来て、このようなすばらしい絵に出会えるのを楽しみにしております。
 どんどん描かせてあげてください。」とおっしゃいました。

<西垣籌一先生との出会い>
京都府亀岡市に、みずのき寮という知的障害者更生施設があります。
ここでは絵画教室が開かれていて、大きな公募展に入選していることはテレビで知っていました。
でも亀岡は遠いので、とても通える距離ではないと諦めていました。
そんなある日、養護学校時代の担任の先生からお電話をいただきました。
ひこ君はどうしていますか、絵を描いていますか、という内容でした。
私はそのお電話で勇気づけられました。
私はひとりではない、正彦のことを気にかけてくださる方がいらっしゃると思ったとき、
勇気を出して、みずのき寮へ電話をかけてみたのです。
金曜日の午後に絵画教室がありますから、前もって文書で見学の申し込みをしてくださいと言われました。
そうするつもりでした。
ところが、朝から大雨が降っていた日のことです。
いつもは寝坊の正彦が午前中に起きてきました。
金曜日でした。
今日はみずのき寮の絵画教室がある日だと思ったら、
矢も盾もたまらず、亀岡へ行くだけでも行ってみようと思い立ち、
正彦を連れて電車に乗りました。
JR大阪駅で亀岡への行き方をきいて、山陰線に乗ってやっと亀岡に着きました。
土砂降りの雨でした。
亀岡の駅から水の器量に電話をすると、
文書で申し込むように言ったのに、着てしまったならしかたがないですね、
タクシーに乗ってくださいと教えてくれました。
亀岡の駅から山のほうに向かって、保津川に掛かる橋を渡り、
あたり一面水田が広がる中をまっすぐ行ったところに、みずのき寮はありました。
絵画教室には8人ぐらいの人が参加していました。
イーゼルを立てて、大きなキャンバスにアクリル絵具で描いている人やら、
机の上の画用紙にクレヨンで描いている人やら、いろいろでした。
ひとりひとりが違う画材を使って、主題もまったく異なる絵を描いているのには驚きました。
ここで初めて、西垣籌一先生にお会いしたのです。
先生はにこやかに、遠いところをよく来たね、とおっしゃると、
画用紙とクレヨンを正彦にお与えになって、
色並べという色彩構成のテストをやらせてくださいました。
正彦はすぐに色を塗りはじめました。
できあがった色並べは黄色を主体にした明るい色でした。
先生はそれをご覧になって「ほう、祭りやね」とおっしゃいました。
「お祭りがだいすきなんです」と申し上げると、
「気性はきついね。
 悪い意味ではなく、気のきつい子のほうが上達が早いのです」と。
そして「私は画家を育てます」ときっぱりおっしゃったのです。
「えっ、うちの子が画家に?」半信半疑です。
そんなこと信じられません。
私の長年の夢が現実になるなんて・・・。
楽しくみんなと絵が描けたら、それだけで満足だと思っておりましたのに、
なんて魅力のあるお言葉だったでしょう。
私は西垣先生のお言葉に魅せられて通い続けました。
1週間に1回では物足りずに、伏見のご自宅にまでおしかけていったこともありました。
先生はそのとき80歳のご高齢でいらっしゃいました。
日本画家で、京都市立芸術大学の助教授までお勤めになりましたが、
形骸化した美術教育に疑問を抱いて大学をとびだされたそうです。
高校の美術教師をされ、保育園の絵の先生もされて、
たどりつかれたのが、みずのき寮でした。
昭和30年代からここで指導をされ、
重度の知的障害者に潜在する絵の才能をひきだしてこられました。
後に、教え子の人たちが京展、二科展、行動展など、大きな公募展に入選しています。
平成6年には、6人の作品がスイスのアール・ブリュット・コレクションに収蔵されました。
こんなにご立派な先生にめぐりあえた正彦は幸せです。
西垣先生から、展覧会に出してみなさいと勧めていただき、大阪日曜画家展に出品しましたところ、
正彦の玉ねぎの絵が産経新聞社賞に入りました。
400人あまりの出品者の中からわずか8名という数少ない賞をいただいたのです。
親にとっても、障害者という枠を超えて、
一般の人々の中で堂々と授賞できたことはこのうえない喜びでした。

<“アトリエひこ”の出発>
そして、私の胸に夢が芽生えました。
正彦のアトリエとして、自宅近くに古い家を借りていたのですが、
ここで絵画教室をやりたい、と思うようになったのです。
もっと多くの人たちと、この喜びを分かち合いたいと思ったからです。
西垣先生に相談すると、
「おやりなさい。これは人助けですよ」とおっしゃってくださいました。
けれど私には教える力はありません。
どなたか良い指導者はいないかと思っておりましたところ、今中史子さんに出会ったのです。
京都市立芸術大学出身の彼女は知的障害者の創作に興味をもって、みずのき寮に見学に来られたのでした。
結婚して大阪に新居を構えたばかりの今中さんに、家のほうのアトリエにも来ていただき、
正彦の養護学校時代の先輩で、絵の好きな中正人君とお母さん、
養護学校時代の恩師で、卒業後も正彦たちを遊びに連れて行ってくださる村中武夫先生と、
正彦と私、この6人で絵画教室を始めました。
そして翌年、全員で大阪日曜画家展に出品しました。
するとどうでしょう。
中正人君の奮戦の絵が入賞したのです。
驚きました。
中君のお母さんも大喜びでした。
私は、仲間を増やすために古いアトリエの改築をしたいと思いました。
そこへ阪神淡路の大震災です。
ますます改築の必要に迫られて、ある方に相談しましたら、
作業所にすれば借金をしなくても補助金がもらえると教えてくださいました。
調べてみると、小規模作業所を開設するためには5人のメンバーが必要とのこと。
養護学校に相談し、在宅になっている大阪市在住の方を紹介してもらいました。
場所は、アトリエの改築が終わるまでは我が家の3階を提供することにし、
1週間に2日、1日6時間の開所で、人数は5人。
これが大阪市の最低条件でした。
それまでの作業所は工賃を得るために下請け仕事をしたり、
売れる商品を作る場所と考えられていましたが、
“アトリエひこ”の作業は絵を描くこと。
今までにない、新しいタイプの作業所がスタートしました。
当初、お母さんが「うちの子は絵なんて描けません」とおっしゃっていた人たちも、
何回か通ううちに夢中になって絵を描いています。
そして、養護学校に通っている人や大阪市在住以外の人たちも、
熱心なお母さんがお子さんを連れて来られるようになりました。
京都から西垣先生もいらしてくだいます。
平成9年にはアトリエの改築がなり、引っ越しをしました。
現在の仲間は15人です。
平成10年には、西垣先生のご紹介で京都市立芸術大学名誉教授の山本恪二先生のところへ
彫刻の勉強にも通わせていただきました。
正彦は粘土で立体を作ることも大好きで、京都の山本アトリエへいく日を楽しみにしています。
そこで“アトリエひこ”でも粘土造形をやってみたところ、みな大喜びです。
見たこともない作品が次々とできあがってくるのを見るにつけ、
この人たちの才能はすばらしいと思いました。
ところが平成12年の春に悲しいことが重なりました。
私たちにとってかけがえのない西垣籌一先生が88歳の誕生日を迎えたあくる日、永眠されました。
ご病床の最期まで、私たちを指導し、気にかけてくださっていました。
そしてその後を追うように、山本恪二先生が突然お亡くなりになりました。
85歳でした。
さらに、メンバーの谷口嘉一君が癌の再発で帰らぬ人となってしましました。
体力が衰えてからも車椅子で参加してくれていた谷口君。
彼の笑顔がもう見られないのは残念でなりません。
今は亡き西垣先生には教え子が大勢いらっしゃいます。
障害のある人もない人も。
とくに正彦のように知的障害を持つ人たちにとっては、西垣先生は恩人です。
ご自分では絵を描くことを断念され、36年もの長きにわたり、
知的障害者の美術教育とこの人たちの才能を世に出すために尽くしてこられました。
優れた美術家でいらした西垣先生の眼力とご尽力があったからこそ、
現在、知的障害をもつ人たちの絵が、子供の絵でもなく、障害者の絵でもなく、
ひとりの才能あるおとなの絵として、認められるようになったのです。
そして後継者を育ててくださいました。
明治生まれで、気性の激しい、まがったことの嫌いな、正直で、愛情深く、優しい方でした。
ほんとうに偉大な方でした。

<正彦とともに歩む>
正彦が心臓手術を受けてから、今年で30年になります。
完治しているわけではないので無理はできませんが、
体調に合わせて思う存分絵を描いたり、仲間といっしょに遠足に出かけています。
正彦という子供をもって幸せに思うことは、正彦のおかげで知り合うことができた人たち、
正彦に関わってくださる人たちが、心の優しいすばらしい方ばかりだということです。
正彦のおかげで、私は豊かな人生を歩ませてもらっている。
心からそう思います。
そして、何事も願い続ければかなうと信じています。
最後になりましたが、さまざまな場面で正彦を見守っていてくださるみなさまに心より感謝いたします。
平成16年 春  大江昌子

楽しい土曜の午後をお過ごしくださいませ。
ではでは。
 

コメント

  1. 柳川典子 より:

    おじゃましました☺
    めずらしい野菜がふんだんに入ったランチ、とてもおいしかったです♪

  2. ten より:

    毎月、初めて見るいろんな美味しい野菜を食べられて楽しいです。またどうぞ~♪